あるところに救世主になりたい男がいました。
男は悪者を捕まえてみんなの英雄になろうとしました。
信じる者は皆救おう、
同じ善悪を唱えるものは遍く救われよう。
しかし彼が悪者として捕まえたものは、
悪者ではなく神様でした。
神様の前では救世主も善も悪も、
何も意味を持ちませんでした。
今日はプロメアのお話をします。
前回、映画館での初見後はリオの美しさに記憶を失って終わった。
今回、BDで見返したので、
以前から感じていた物をもう一度やってみます。
プロメアは怒りの物語です。
突然ですが仏教の話をします。
仏様の多くは穏やかに我々を見守っている。
そんな中で唯一忿怒の眼で我々を見つめる存在があり、
それが不動明王だ。
どうしても教え道に辿り着けない人々に、
無理強いしてでも教えを説く。
炎を纏って怒りの姿で無明の民に明かりを示す。
これがリオ・フォーティアとする。
一方、この物語前半における英雄は自分の経典を掲げて、
上辺の明によって人々を導こうとしました。
彼が本当の姿を現した時、
彼もまた怒りの姿で現れた。
自分も他者も真実を隠し、
他者の犠牲を積み重ねてでも何者かであろうとする。
まるで人間ですね。
これがクレイ・フォーサイト。
リオが地球を救う戦いに乗ったのは、
プロメアを完全燃焼させるという、
プロメアと繋がるバーニッシュとしての自分の、
そのままの生を燃やし尽くすためのこと。
まるで荒ぶる神のように。
仏と肩を並べる前に山を割っていた頃の竜のように。
そんなものの前では、
人間の野望や自己嫌悪など、
何にもならない。クレイ・フォーサイト。
人間が起こしがちな大きくて小さな問題を
怒りと本能という、
小さくて大きな生き様で覆そうとする。
ここにガロの受容が加わることで大団円を迎える。
リオの怒りと、プロメアの本能と、ガロの受容の前で、
救世主は本当の明を得て朝を迎える、
そういうお話だったわけですね。
ああ〜なんだかすごく仏教的だと思ってたんだけど、
人間を謳った小さな存在と、
人間も宇宙も超越した存在の哲学的な概念の対比が、
仏教哲学っぽかったんだね。
わかりました。
ありがとう。
独り合点ブログ、終わりです。
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