匿名メッセージで「フーゴはナランチャのことをどう思っていたか」という質問をいただいた。とってもいい質問です。難しくてつらくていい質問だ。
今日ここで述べるのは他でもない、大変に主観的でキャラの気持ちを勝手に類推、いや、ねつ造するものにすぎないので、二次創作であることをお忘れなく。
しかもちょっと厳しい視点で考えざるを得ない。
がんばるけど、私はフーゴじゃないのでわかりません。
それでは今夜最後のナンバーは、パマのニューアルバム「こんなに好きになると思ってないかった」から『それはお前の怠慢だよ』
それはお前の怠慢だよ
作詞・作曲/パマ
彼はたぶんナランチャについて
「こんなに好きになると思っていなかった」なんて言うだろう。
それは
「死ぬとは思っていなかった」
「殺すつもりはなかった」
そういう供述と同じだよ。
彼は抑圧的な場所にいたから、日常的な怒りや、一般的な喜びを表現できる場に乏しかった。
だから同等に張り合ってくれて、ばかだから張り合われても悔しくなくて、
自分に教えを乞うてくれる、ナランチャに全部見せちゃったね。
でもそれはお前の怠慢だよ。
都合がいいからいい加減に扱った。
褒めたけどすぐけなした。
丁寧にできることもいっぱいあったのに、「大好き」も言えたのに、
「どうせあとで言うからいいや」
って言わなかったな。
彼は今まで愛情を持って感情を露わにした存在を持ったことがなかったから、失くすまで気付かない。
だからいなくなってから「大好きだった」と思ったし、
不意な喪失感に激しい焦りを覚えたね。
でもそれは怠慢のツケだよ。
毎日顔を見るから「大好き」を怠った。
愚直なナランチャを映画でも観るように漠然と観察した。
愛せる時に愛さなきゃいけないのに、100点取るまで見守れたのに、
「こんなに好きになると思っていなかった」
って驚いたりしたな。
まあでも、よく考えてもみなよ。
毎日新鮮に「大好きだ」なんて言えるか?
毎日飽きもせず「君ならできます」なんて言えるか?
落ちに落ちてここまで来て、すっかり疲れ果てていて、
心をどこか腰掛けたかったのに、
自分のことも愛せてないのに。
『いつ離れ離れになるかわからないから』
『いつ死ぬかもわからないから』
うるせえ、そんなわからないことのために苦心していられるかよ。
だから君の怠慢はむしろ愛だよ。
飽きるくらいまでそばにいてずっと見ていた。
ナランチャに教えて教えを乞われることで満たし満たされた。
永遠を信じたし、明日を信じられた。
「言いたい時に大好きですよって言おう」
って自分を許せたね。
彼もナランチャも
そういう存在探してたんだね。
君、ナランチャのこと愛してたよ。
ナランチャを通して自分を許せた、フーゴのこと大好きだよ。
≪追記≫2019.02.16
記事の内容について質問をいただきましたので回答いたします。
先に謝らせてもらいたいんですけど、論文ではなく随筆みたいなものなので、
「~って思う!」が8割です。
がんばろ。
〇「こんなに好きになると思っていなかった」=「ナランチャへの甘え」?
そういうことになると思います。
獰猛な怒りを内包したフーゴは、大切な人に対しては感情は抑えるものと心得ている。
ナランチャに対してはわりとだらだらと感情を垂れ流していたような気がするので、
「こんなに好きになると思ってなかったんだろうな」と感じています。
ナランチャとの心地よい関係に、怠惰になってしまった。
とかく人生には遅れと後悔がつきもの。
だけど「こんなに好きになると思っていなかった」という後悔は、
フーゴの人生の彩度を上げる後悔だ。
この後悔の大切さにも、遅れて気付くでしょう。
〇愛情表現の怠惰が愛に繋がるのはなぜか?
フーゴもナランチャも、彼らのそれまでの生き様を見ていると、
一生懸命愛を振りまいて愛を讃えて、つまり全身全霊で愛情を表現することは、
果たして彼らにとって幸せなことなのだろうかと、疑問に思う。
愛の概念についてあれこれ定義づけるのは野暮というものだけど。
フーゴは完璧な愛を取り繕いたいところを余計なことはせず、
自分の憂鬱と怒り、教育への喜びといった素直な感情を見せてあげた。
ナランチャは、ああいう性格だから、そのほうが嬉しかったんじゃないかな。
他人を見下すのはよくないけど。
「これが愛だ」と断定的には言えない、フーゴとナランチャの間だけで成立するものがある。
これが「怠慢ゆえの愛」かなと思います。
〇フーゴが自分を許せたのはなぜか?
上述した二人の間だけで成立する、均衡がとれた状態をフーゴはどこかで感じ取っていて、
「こんな人生でこんな性格だけど、まあいいか」
とうっすら思っていたのではないだろうか。
このぐだぐだした愛の状態を「怠惰だ」と叱り飛ばす人しかいなかった。
自分だってそうだった。
それがフーゴを賢く育てたけど、自分に厳しくい続けることはとても苦しい。
以前「フーゴに滅ぼす罪はない」という話をしました。
あとは自分で自分を許すのみ。
期待通りの姿で他人を愛せなくても、期待通りの人生でなくても、
「まあいいか」
と思えたことが、許しだったんじゃないかな。
以上です。答えになっていますでしょうか......?
ぼんやりしたことしか言えないんですけど、感想とか質問とかもらえるの、
嬉しいな!
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ロバート (日曜日, 10 2月 2019 23:23)
更新ありがとうございます。素晴らしいです。正直、涙が出るというより、なんといえばいいかわからない感情になります。(※悪い意味ではありません。)
(ジョジョの世界観でいう)ギャングという立場でありながら、『「死ぬとは思っていなかった」』のは、ナランチャが同等でそれが普通(当たり前)のことだったからかもしれません…。そばにいることも。
けれど、「…君の怠慢はむしろ愛だよ」という言葉。これにとても安心いたしました。『「死ぬとは思っていなかった」』こと≒「怠慢」は、悲しいことばかりではなかったんですね。
冒頭に書いた「なんといえばいいかわからない感情」は、パマさんが語られるフーゴ、ナランチャの情報が、私にとって新しいものだったんだと思います。改めて彼らのことを咀嚼して理解しようとしたのかもしれません…。
長文コメントで申し訳ありません。
毎回、ブログの更新が本当に楽しみです。